P.S.

日々のあとがき

心と言葉の距離

誰かとの会話は好きなのだけど、得意よりは苦手。特に大人数になってしまうと、喋るのがどうしても億劫になってしまう。そういう感覚は昔からあって、どうしてなんだろうっていうのはずっと考えてた。いや、本当に会話は好きなんです。誰かと飲みに行って話すのもすごく好きなんです。ただ、自分自身がそれをうまく出来ないなと感じてしまって勝手に落ち込んでしまうから、そういう意味で、会話は苦手。

最近少しずつその理由が明確になってきたような気がしていて、それは、心を言葉にしようとすればするほど、まるで手から離れてしまった風船みたいに、どんどんと言葉が遠ざかっていく感覚に陥ってしまうからだと思う。それでも、なんとか心は言葉までたどり着くことはできる。でも、それまでの過程で、伝えたかった自分の「本当」が剥がれ落ちていってしまうような気がして、そう感じてしまうことが、寂しいし、悔しいな、と思ってしまうから、僕は会話が苦手なんだと思う。

そんな心の中の「本当」が剥がれ落ちてしなびてしまった言葉でも、まるで言葉は意志を持っているかのように、一度発せられたら止まることはない。島尾敏雄がある小説の中で書いていたけど、「一旦口から出た言葉は動かすことのできない威厳と真面目な鋭さを装い、孤独に歩いて」いってしまう。そうして、自分の心が言葉に届く時の何倍もの速度で、誰かの中に届いて、そのまま居座ってしまう。

言葉にはそういう性質があるんじゃないかと思っていて、だからきっと、誰かから言われたひどい言葉は錆びみたいにこびりついてしまって消そうと思っても消えないのに、自分が言ったひどい言葉は自分のものではないみたいに知らないふりを出来るんだと思う。心が言葉に届かなくて、自分の思いがそこにほとんど存在していなくても、言葉は自ら孤独を求めていくように、僕がいる場所を離れて行って、知らないどこかで嘘も悪意も飲み込みながら、誰かの心に届いてしまうような、そんな気がしてしまう。

だから、誰かと何かを話した後、いつも自分の言葉を反芻してしまって落ち着かない。相手を傷つけるようなことを言っていなかったかとか、相手を嫌な気持ちにさせることを言っていなかったかとか、そういうことが気になってしょうがない。そして、自分が放った言葉の中に一体どれだけ自分の心が存在していたのかもわからなくなって、なんとなく自分という存在が透明であやふやなものになっていくようなそんな気がして、それがとても寂しいと感じてしまう。

 

そういう気持ちがあるから、こうしてブログを書くことで、僕自身の心の中の「本当」を消化してるのかもしれない。書くっていう行為は、相手が誰かを意識しなくてもいいから、どの言葉を選べば心が届きやすくなるのかを、考える事ができる。心が言葉に届くまでの距離は変わらないけど、考える分だけ時間をかけることは出来る。そんな気がするから、僕は書くっていう行為を始めたんだと思う。

そんな風にして書いているから、これは誰かに届けるために書いている、というよりは、自分の心を言葉に届けようとして書いているようなもので、言ってしまえば、自分自身のための記録に過ぎないのかもしれない。でも、もしそんな記録でも誰かの心に擦り傷程度でも残せるのなら、それは僕が心の中の「本当」を、言葉に少しでも届かせる事が出来た証明になるんじゃないかなんて、そんなことを思ったりする。

まぁでも、それはあくまでも高望みなんだけどね。